しば塾の世界史日記

世界史についていろいろ書いていこうと思います。

今日の国際ニュース日記 7月6日

ここしばらく色々あって以前より時間ができるようになったんで、その時間を使って飽きるか忙しくなるまでその日あった国際ニュースに関する日記でも書いていこうと思います。
というわけで今日のニュースはこちら

ウクライナ南部に親露派が「州政府」設置…トップはロシア行政担当者、直接支配進む(読売新聞オンライン) - Yahoo!ニュース  【キーウ=深沢亮爾】タス通信などによると、ロシア軍が全域制圧を宣言しているウクライナ南部ヘルソン州で4日、親露派が「州政 news.yahoo.co.jp 

ロシアが現在武力占拠しているヘルソン州において現地の親ロ派が州政府を作りそのトップにロシア政府の関係者を据えたという内容です。このニュースからロシアがヘルソン州において実行支配をより確固たるものにしようと動いていることがわかるでしょう、おそらくロシアは今後住民投票を行なってヘルソン州クリミア半島みたいにロシア本土に編入することも予想できそうです。

ところでロシアはドンバス地方であるドネツクとルガンスクについては傀儡国を作ったあと編入する姿勢を一切見せないのに対しヘルソン州ではロシア系住民の比率と数で言えばドンバスの両地域よりも少ないのに直接編入する気満々なのはなぜでしょうか?答えはクリミアが関係しています。

クリミア半島はロシアの黒海艦隊の拠点であるセヴァストポリ港が存在しロシアの最重要地域の一つであるわけですが実はクリミアは生命線である水をヘルソンを水源とするこの北クリミア運河に頼っているのです。

そのため2014年のロシアによる編入以降ウクライナは運河による水の供給を大幅に減らしクリミア半島の農業は水不足から規模を大きく減らし10分の1ほどしか作付せざるを得なくなり(それでもロシアの補助金で生産額は伸びた)住民も一日3から5時間しか水を利用できてないとの情報もあります。

今回のウクライナ侵攻はクレムリンの様々な思惑が絡んだ戦争です、プーチンの理想はウクライナ全土の掌握、軍部の理想は沿ドニエストルまで至るノヴォ・ロシア地域の獲得、表向きの理想はドンバス地域の開放、しかしながらどの勢力でも共通して挙げる最低限の成果である意味ドンバスより重要なのがこのクリミアの水不足の解消です。なのでロシアはヘルソンへの統治を確固たるものにしようとしているのでしょう。

なぜ肺と足は生まれたのか?〜4億年前に追い詰められ進化した我々の先祖たち

なんか最近弱くて追い出された奴がその後強くなってかつて追い出した奴らを見返す…みたいな話が流行っているじゃないですか、なので私もこれに乗じてなんかそんな感じの歴史的な出来事あるいは人物について書こうと思ったんですけど残念ながらあまりおもい浮かばなかったんですね。というのもムガル帝国みたいに追い出された奴が新天地で大いに発展する例とか韓信みたいにあまり後に新たな地でかつての主君を見返す話はあるんですけどその両方を兼ね備えた例は少ないんですよね。

ですが生物の進化の歴史を見るとこれとピッタリ一致することがあったんで今回は今までと大分違った内容ですがそれについて書いていきたいと思います。

※この記事は話として面白くするために所々改変しています、もしこれを機に古生物に興味を持ったら是非ご自分でしらべて見てください。

4億年前の地球

今回の舞台となるのは今からおよそ4億年前の地球です、この時代の地球はデボン紀と呼ばれた時代ですがどの様な状況であったかというと陸では赤道直下にユーラメリカ大陸と呼ばれる広大な大陸と南半球にゴンドワナ大陸、そしてさらに北にシベリア大陸という3つの大陸が存在していてその中でもユーラメリカ大陸はその数千万年前に3つの大陸の衝突でできたため巨大な山脈であるカレドニア山脈がが存在し、その山脈が大気の流れを大きく遮り恒常的な降雨を周辺地域にもたらしていました、

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(https://paleontology.sakura.ne.jp/w-debon.htmlより引用)

その結果この大陸は今のアマゾン川の様な巨大な河川が複数存在している状況でした。そしてこの少し前に海中から上陸を果たしていた植物は運良くユーメリカ大陸の河川と豊富な降雨によって大繁栄を遂げ大陸中を緑で覆い尽くしていました、要するに今のアマゾンを何倍にも拡大させたような環境であったと考えればいいです。

しかし違う点が存在します、それが動物がほとんどいないことです。というのも動物は植物が地上への進出を果たすまでオゾン層が薄く有害な紫外線に晒されて生き残れなかったことから進出が進まず、この時代にようやく住める様になったくらいだったので小さな虫しかいない状況だったからです。ですが海中は動物の天下で幾度かの大絶滅を経て生き残った多種多様な動物が生息していました、魚類や三葉虫、それにアンモナイトなんかがこの時代の代表的な生き物です、その中でも特に魚類が大繁栄し様々な種に分かれながら世界中の海を支配していました。

海の覇者板皮類

そんな魚類の中で特に有力だったのが板皮類と呼ばれる種類の魚です、この魚の大きな特徴は発達した顎を持っていることと鱗がないこと、そして体を鎧の様な硬い皮膚で覆っている点です。この板皮類の中でも最も強く当時の生態系の頂点に立っていたのがこのダンクルオステウスです。

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ダンクルオステウスは全長6mにも達する巨大な魚で頭部から肩帯にかけてははまるで甲冑のような硬くて重い装甲板で覆われていました。さらには強大で強靭な顎を持っていてその噛む力は440~530kgにも到達したと計算されています。ちなみに残念なことに頭部と肩以外は装甲に覆われてなかったので化石として残ってませんが後世に残った頭部だけでもその恐ろしさは十分伝わってきます。

川に追い詰められた敗者

このように当時の海には恐ろしい魚がウヨウヨしていたわけですが今回の主人公はこうした勇ましい魚ではなくこうした強力な捕食者から逃げていた生き物たちです。海での競争に敗れた魚の中には淡水である川に逃げることで活路を見出そうとした者たちがいました、それが現在の我々の先祖でもあり現在の魚の大半を占める硬骨魚の先祖でもある棘魚類です。

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棘魚類の特徴は鱗が存在することと背中に存在する大きな棘と上下の顎を持つ点です、現生の魚の先祖なだけあって似ている点が多いですね。そして棘魚類は慣れない淡水に適応しライバルのいない新たな環境で繁栄します、海が板皮類の天下であったこの時代川はこの棘魚類の天下でした。しかし棘魚類が繁栄し幅広い河川に進出するとまたしても彼らは困難に直面するのでした。

なぜ肺が生まれたのか?

海から川を遡った棘魚類はさらに上流へ、より細い川へと進出しましたがそうした棘魚類はある困難に直面します、それが酸素不足です。知っての通り熱帯雨林には乾季と雨季が存在します、そして乾季と雨季では降雨量に差があるのでそれがそのまま川の流入量に直結します。そのため巨大な河川ならともかく上流の小さな支流やあまり大きくない河川では、流入量が乾季と雨季では全く違うものとなり乾季になると水の流れが滞りがちになります。

その結果乾季になるとこうした流れの滞る川は容易に酸素不足に陥ってしまい新たに入ってきた棘魚類を苦しめます、棘魚類はより多くの酸素をどうやって得るかという難題を解決しなければならなくなりました。そして今から約3億7000万年前川に住む棘魚類の食道の一部が肺に変化して大気中の酸素を呼吸できる肺魚が生まれました。より少ない酸素でも生活できる肺魚はこうしてさらに狭い河川へと進出していきます。

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こうした肺魚の中で代表すべき種は我々の先祖でもあるユーステノプテロンでしょう、ですがこうした肺魚は後にある生き物誕生で再び捕食者の脅威にさらされるのでした。

敗者の王ハイネリア

海で板皮類に負け川へと逃げ込んだ棘魚類は肺を獲得することで淡水界で大きく繁栄します、ですが淡水魚の数と種類が増えると当然捕食者と被捕食者の関係ができてきます。そして淡水界の生態系の頂点となったのがユーステノプテロンから進化した今から約3億6000万年前に誕生したこの肉食魚ハイネリアです。

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全長2.5mから4、5mにまで大きくなったと推定されるこの魚は当時の淡水魚の頂点であり8cmもの大きさの鋭い牙でユーステノプテロンなど他の肺魚を次々と捕食していました。この結果他の肺魚はハイネリアの入れない狭い川に入るものが増えていきます、そしてそうしたものの中でまた新たな進化が起こるのです。

足の誕生

ハイネリアの入れない狭い川を主な生息地にした魚たちの中である器官が発達します、それがヒレです。当時の陸上では大森林が広がっていたのは前に書きましたが、実はこの時代の樹木はまだ分解できる生き物が存在しておらず倒木などは分解されないまま川の中にあり続け特に小さい河川では流れずに多く存在していました。

その結果こうした環境に住む魚たちは移動する上で邪魔な木々をかき分けて進むべくヒレを発達させていきます、そしてそれがついに足へと発達するのです。そしてハイネリアが誕生してから間も無く発達した足を持ったユーステノプテロンの子孫たちの中で陸上への上陸を果たすものが現れます、これが魚類から両生類の進化でもあり記念すべき我らが先祖の初上陸の時でした。この時期の代表的な両生類がこのアカントステガと

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このイクチオステガです

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なぜ陸に上陸したのか?

さてここからは以前私が見た説と私の推論も入るので流してもいいのですがなぜ四肢を持った魚は陸上へと進出したのでしょうか?その鍵となるのが三日月湖です。三日月湖とは河川が蛇行した結果その一部が切り離されてできる水域で以下の図にようにして成立します。

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ともあれこうしてできた三日月湖はかなり孤立した水域であるので流れが澱んで酸素不足になる上次第に蒸発して陸地になってしまいます、ではこうした水域に取り残された生物はどうなるのでしょうか?酸素不足による死を待つかそれを生き残れたとしても干上がって死ぬしかありません。ですがただ一つ生き延びる道があります、それが陸への進出です。肺を獲得しある程度陸で暮らせる四肢を持った肺魚三日月湖の蒸発という極限の状態の中で生き延びるために他の水域へと移動すべく陸地へと上がったのではないでしょうか?実際この時期の両生類の化石を見ると同じ種でそう遠く離れてない地域に住みながら顎や体の大きさでバラバラな個体群同士のものが見つかります、これは孤立した三日月湖で何世代か進化したためと考えるのが自然ではないでしょうか?

そして何世代か経った後いよいよ限界に達した彼らは未知の世界への第一歩を踏み出したのかもしれません、そう考えると納得することがあるので個人的にはこれが陸上へと進出したきっかけじゃないかと思います。

板皮類のその後と海に戻った肺魚たち

こうして陸上へと進出した両生類は後にカエルやサンショウウオ、イモリといった生物の先祖となります。それだけでなく水辺を離れより陸上へと適応すべく進化した生き物は後の爬虫類となり、ヘビやワニ、トカゲと言った生き物へと進化しました。そしてその後一部の種は恐竜となり後の時代の生物の覇者となりその恐竜は今の鳥類の先祖となりまた恐竜とは別に哺乳類へと進化した種族は恐竜亡き後の時代に繁栄を遂げ我々人類の先祖となります。

ですが繁栄を遂げたのは海を離れた者ばかりではありませんでした、実は板皮類はその後デボン紀末期の謎の大絶滅であのダンクルオステウスを含む多くの種が絶滅してしまいます。この絶滅には謎が多いのですが特徴として海中の生き物だけやたら絶滅したこととその中でも熱帯地域の生き物が特に絶滅したことから寒冷化が原因ではないかとされています。ともかくこうしてかつて自分達の脅威であった種が消えた淡水魚たちは故郷である海へと帰っていきます、とはいえ彼らにライバルがないわけではなく競合種との過酷な競争を生き延びなければならなくなります。

ですが海へ帰った淡水魚はこの戦いを見事に勝ち抜きます、その理由としては浮き袋を獲得したからです。淡水にいた頃に肺を持っていた魚たちは海へと帰った後不要となった肺を浮き袋へと変化させます。

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浮き袋とはその名の通り空気の入った袋ですがこの器官のお陰で海へと出戻った淡水魚、現在の硬骨魚は大繁栄します。魚は密度が水より思いため筋力を使って上がりながら泳がねばなりません、しかしこの浮き袋は空気を溜めることで無駄な力を使わずに浮かぶことができます。この浮き袋があるとないとでは運動面で大きな性能の差がでてしまいます、そして無駄な力を使わずに泳げた硬骨魚は浮き袋を持たない他の魚を駆逐し現在ではサメやエイなどを除くほぼ全ての魚はかつて淡水に追い詰められた棘魚類を先祖とする硬骨魚となっています。

最後に

今から4億年前強大なライバルに追い詰められた我々の先祖は淡水に逃げ込み、さらに細い川へと逃げ込み陸への上陸を果たしました。進化は強者の中では起きません、なぜなら強者はそのままでも強いがために進化する必要がないからです。これはやや強引ですが人間社会でもこれは当てはまることがあるのではないかと思います、たとえ競争に負けたとしてももし多少でも再起できるなら新たなスタートを踏み出し勝つことができるかもしれません。少なくとも我々の先祖はそうして生き残ってきました、でしたらその子孫である我々もできないことはないと思います。

それでは今回はここまでまた次回。

縁もゆかりもない国々に後継を争われてる国々〜中国の東北工程と韓国

日本に住む我々にはあまり理解できないかもしれませんが、ある国にとって自国の領域にかつて存在していた国は例え民族や文化を共有していなくてもなんらかの繋がりを感じ、親近感を抱くだけでなく場合によってはナショナリズム高揚に使われたりします。しかしここで問題となるのはその畏敬の対象である国が現在の国境から見ると複数に跨ってる場合です、こうなるとどちらの国がその後継を名乗るのか争うこととなってしまうからです。しかも例えばモンゴルのように現在でも民族や文化に繋がりがあるならともかく、お互い既に古代のその国と直接的な繋がりがない場合どちらも確固とした正当性がないのでしばしば泥試合になってしまいます。

というわけで今回はそんなケースの一つを紹介しようと思います。

高句麗渤海

今回紹介するのはかつて東アジアに存在した国である高句麗渤海を巡って中国と韓国が争ってる話です、この2国は有名なので説明するまでもないでしょうが一応簡単に書いておきます。

高句麗は紀元前1世紀頃から7世紀まで朝鮮半島北部から中国東北部、かつて満州と呼ばれた広大な地域の南半分を支配していた巨大な国です。

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(高句麗の最大版図)

この国はあまりよく分かってないことの多い国ですがツングース系の半農半猟を営んでいた貊人が建国したと考えられていて紀元前1世紀ごろに漢王朝の衰退とともに自立し、中国が三国時代南北朝時代で争いを繰り返すうちに勢力を拡大していきました。最盛期を作った王である広開土王の頃には朝鮮半島の大部分と中国東北部の南半分を支配する強大な帝国として東アジアに君臨します。その後も領土は多少小さくなるものの相変わらず大国としてい続け中国本土が隋によって統一されると2代目皇帝の煬帝は大軍を率いて隋を攻めますが3度に渡る大遠征は全て失敗し、隋が滅亡するきっかけとなります。

その後隋に代わって中国を統一した唐も高句麗を征服しようとしますが2度も遠征を行うもやはり失敗し、3回目で新羅と組みようやく高句麗に勝利し668年高句麗は滅亡してしまいました。

渤海高句麗と同じくツングース系の民族である靺鞨人が朝鮮半島の北辺から主に中国東北部の南半分、そして現在のロシアの日本海沿岸、沿海州と呼ばれる地域に建てた国です。

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(渤海の最大版図)

渤海は698年靺鞨族の大祚栄と呼ばれる人物が高句麗の復興を掲げ、高句麗の遺民を多数従えて建国されました、故に高句麗の後継国家とも言えるでしょう。この国は唐に冊封して保護を受ける一方高句麗の後継であるという意識から独自の元号を使うなどし、また南の新羅と争ってる都合上日本にも盛んに使節を派遣し交流していました。しばらく安定していましたが10世紀ごろから内紛が激しくなりモンゴル系の契丹人が建国した契丹に滅ぼされてしまいます。

こうしてこの2国は滅びたたわけですがそれから千年経った現在、中国と韓国がこの2国の歴史を巡って激しく争うようになってきました。なぜそうなったのかを書いていきます。

韓国と中国にとっての高句麗渤海

高句麗は韓国や朝鮮半島に存在した国にとってしばしば畏敬の対象になっていました、理由としてはいうまでもなく強大であったからですがとりわけ中国の王朝である隋や唐と戦い何度か勝利したことが大きな理由です。この畏敬の念はかなり早くから存在し例えば新羅の次の王朝である高麗は渤海などと違い民族的には全く高句麗と関係ないにもかかわらず高句麗の再興を目指し国号の由来としました、その後も朝鮮は長い間歴代の中国王朝に服属しますがそんな中ほとんど唯一中国王朝に打ち勝ち大陸に領土を持っていた高句麗は例え民族的な繋がりがなくとも憧れの対象であり続けました。

一方で中国からすると中国本土や多数派である漢民族とは全く関わりがないものの、主要な少数民族の一つである満州族高句麗と同じツングース系民族で高句麗と多少関わりがありますし、何より高句麗の領土の多くは現在の中国にあたる地域であるため完全に別な国の歴史とは言いがたく無視することはできない存在なのです。

他方渤海に関してはまた少し事情が異なりますがやはり韓国と中国は繋がりを主張しています、韓国にとって渤海高句麗よりさらに繋がりが薄いものの高句麗の後継であり朝鮮半島にも領土を持っていたことから関連があると考えています。それどころか驚いたことに韓国の教科書では高句麗百済滅ぼし三国を統一した新羅の存在していた時代を統一新羅ではなく南北王国時代として教えています、要するにあの時代朝鮮半島は統一されておらず自分たちのルーツである渤海新羅が争っていた時代と教えているわけです。

そして中国もまた高句麗と同じ理由から渤海を自国の歴史であると主張していますが渤海の場合朝貢だけでなく冊封を受けていたことや唐風の都である上京竜泉府が作られるなど唐の影響が高句麗より強かったこと、領土の大半が中国やつい最近(1860年代)まで清の領土であった沿海州であることも中国の主張を補強してます。

第三国に住む我々からすると両者の言い分とも間違っているように思えないですし高句麗渤海は中国の歴史でもあり朝鮮の歴史であるとすればいいじゃないかと思うのですが、実は両国の高句麗渤海をめぐる対立は単に高句麗渤海だけにとどまらないもっと大きな対立を孕んでいるのです。

東北工程

中国と韓国の歴史対立が本格的に始まったのは1997年です、この年中国は「東北辺疆歴史与現状系列研究工程」と呼べれる中国東北部(旧満州)の歴史研究を目的とする国家プロジェクトの開始を発表します、通称東北工程と呼べれるこの取り組みが今に至る両国の対立を引き起こしました。その後何年にも渡って行われたこの研究では高句麗および渤海は中国の少数民族と同系統のツングース系夫余人が建てた国で中国の地方政権であるとされました、そして高句麗渤海は中国本土に隷属していた王朝であることや高句麗と隋、唐の争いは「内戦」というような発表がされそれが中国の公式見解となりました。

中国がこのような研究を開始したのは国内の民族問題からです、中国には現在も満州族がいますが加えて朝鮮族少数民族として存在しています。なので中国は朝鮮族が韓国や北朝鮮と統合しようとしたり満州族が自立しようとすることを恐れたので両民族が古代から中国の民族であったとする必要が生じそれに高句麗渤海が利用されたというわけです。

当然こんな発表に韓国は猛反発しますが中国の東北工程はさらにエスカレートしその数年後には高句麗のみならず百済までもが中国の地方政権ということになってしまいます、これはなぜかというと百済の建国神話と関係しています。百済の建国神話では初代百済王は高句麗初代王である朱蒙の子であることになっていてルーツを高句麗と共有していたからです、もちろんこの建国神話は強大な高句麗の威光にあやかるために作られたものでしょうが一方で百済の文化は新羅よりも高句麗に近かったのでこれらを根拠に百済もまたツングース系民族が建てた国であり中国の歴史であるとしたのです。

一方で韓国も負けじと高句麗および渤海が韓国の歴史であることを強く主張し官民一体となって大規模な宣伝を開始します、その一環としてこの時代を扱う韓国ドラマが大量に作られました。特に有名なドラマとして『朱蒙』が挙げられますがこのほかにも多くのドラマが作られ一時期韓国ドラマは古代朝鮮、正確には高句麗渤海を扱ったもので席巻されました。ちなみにこれは効果があったのか不透明ですが少なくとも中国は相当不快感を示したらしく『朱蒙』をはじめとしたこうしたドラマは放送を禁止されてます。

このように鞘当てが続けられていましたがついに中国は朝貢関係を理由に新羅もまた中国の地方政権であったとの主張を開始する様になります、ここまでくるといよいよ韓国は本気で怒りついに政治問題化しました。結局学術討論で解決していき政治問題としないことが決められましたが未だに民間では中国に対する反発が強く、驚いたことに東北工程は日本との従軍慰安婦問題などを始めとした歴史問題以上に深刻かつ懸念すべき歴史問題とされています。

まあ韓国からすれば東北工程が進めば自分たちの歴史における歴史を全て否定し、「朝鮮は中国の辺境に過ぎない一地方。」とされかねないことで自分たちのアイディンティティの根本に関わることなんである意味当然と言えるでしょう。

歴史対立のその後

その後も両国の対立は一向におさまらずむしろ悪化しています、その理由としては韓国の懸念がより悪い方向で当たり中国が過去の歴史に限らず現在の韓国文化に関わることにも起源を主張しているからです、例えば向こうの着物のような存在である伝統衣装の韓服や韓国の代表的な漬物であるキムチなどですこれらは東北工程をもじってキムチ工程や韓服工程と呼ばれています。中国がこのように暴走しているのは習近平政権の発足以降、愛国主義を過度に強調し過去の中国の全盛期に存在していた文化や歴史は今もすべて中国のものだという立場を取っているからだと言われてます。

これは日本も当然無関係な話ではなく朝貢関係をもとに中国の一部とするなら古代日本の大和政権や室町幕府は中国の一部となるでしょうし19世紀まで朝貢を続けていた沖縄なんかはさらに危ういといえます、また日本に存在する様々な文化例えば茶道や着物や日本料理なんかの起源も主張し始めるかもしれません。どちらにせよこの件は対岸の火事ではありません、今や古代中国と深く関わってきた国や地域は全て中国による歴史的、文化的なある意味征服事業の対象になる可能性があることを注意するべきでしょう。

高句麗渤海はどこの国の歴史か?

さてここまで高句麗渤海をめぐる中韓の歴史対立とそれの広範への広がりを書きましたが、そもそもの話高句麗渤海は中国の歴史でも韓国の歴史でもないとも言えるのではないでしょうか?確かに両国は朝鮮半島と中国にあたる領土を持ってました、ですが現在の両国に彼らの残した文化はほとんどありませんただ領土が被っていただけなのです。それを以って後継とするのはかなり違和感があるのは私だけじゃないでしょう、高句麗渤海は中国の歴史でも朝鮮の歴史でもないとする方が自然な気はします。

とはいえ高句麗渤海のような話はこれだけではなく世界各地に存在します、例えばエジプトはピラミッドに代表される古代エジプト文明を誇ってますが今のエジプト人の大半はアラブ人なので全く関わりがないですしギリシャ古代ギリシャの文明や文化を誇ってますが現代のギリシャ人はスラブ人やトルコ人との混血が進み全く違う民族となっています。なんなら中国にしたって儒教三国志を誇ってますが漢や三国志の時代の中国人の子孫は魏晋南北朝時代に9割ほどが死亡し北方の遊牧民が大量に流入、言語レベルで大きな変化が起こるほどの変化が起きています。

盛者必衰の言葉にあるようにいかに繁栄している国や民族でもいつの日か滅びてしまうものです、ですがただ滅ぼされるだけでなく後世縁もゆかりもない人達にその栄光を利用されることは珍しくありません。この事を最大の侮辱と見るべきかそれとも滅ぼされてなお輝く栄光を残せたと誇るべきか私は未だに判別することはできません、ですが世の中には完全に忘れ去れれてしまった国や民族も多数存在します、それらに比べれば私は後世に記憶されるだけ恵まれているのかなと思います。

それでは今回はここまで、また次回。

 

 

ロシアが次に失う国

先々月の23日、とんでもないニュースが世界を駆けました。ロシア中央軍管区のルスタム・ミネカエフ副司令官が、ウクライナに対する軍事作戦第2段階の一環としてとウクライナ南部の完全掌握を計画していてそれによってモルドバ東部の抑圧されている親ロシア派支配地域トランスニストリア(沿ドニエストル共和国)の回廊確保が可能になると言ったのです。あからさまにモルドバに対する威圧的な言動でありまた次の侵略ターゲットを指名するかのようないつも恒例となった傍若無人なロシアらしい言動ですが、実は今回の発言はロシアの外交を考えてみるとただの威圧以上に、おそらく発言した司令官すら想像してないほど重要な意味を持っていて今後の外交に大きな影響を与える可能性があるのです。と言うわけで今回はこの発言の持つ意味について書いていこうと思います。

モルドバ沿ドニエストル共和国

その前に今回の舞台となったモルドバ沿ドニエストル共和国について簡単な紹介をします、モルドバは下の地図にあるようにウクライナの隣国でルーマニアウクライナに綺麗に挟まれている国です。

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なんだか不自然な形をしていますがそれもそのはず、この国の元となった地域は元々ルーマニア領であり第二次世界大戦の時にソ連が無理やり奪い取り自国に編入した地なのです。

なので住民はルーマニアに極めて近く、言語も実際ルーマニア語が話されています。そればかりか独立当初はルーマニアとの再統合を目指す声も強かったです、ですがソ連からの独立闘争を経てモルドバに愛着が湧いたことや数十年にも及ぶソ連統治でルーマニアと断絶ができたこともあっていざ国民投票をしてみたら統合反対が圧倒的多数でありそのまま独立した状態になっています。またソ連時代の過酷な統治もあってロシアに対する反発はないわけではないのでロシア語を公用語から外したりと脱ロシア化政策を進めています。

そんなモルドバですが小国でありながら民族問題を抱えていてロシアからの介入を受けています、それが冒頭で触れたトランスニストリア問題です。

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黄色のこのトランスニストリア地域がですが、この地域は工業が発達していることもあってソ連時代に多くのロシア人やウクライナ人が移民として送り込まれた歴史がありその結果住民の3分の1がロシア系、もう3分の1がウクライナ系、残りがモルドバ人となっています。モルドバ本土の場合全国民のうちロシア系とウクライナ系はそれぞれ4%と6%なので、いかにこの地域にロシア系やウクライナ系が多いかがわかります。

そんなトランスニストリアは現在沿ドニエストル共和国を名乗り独立を主張しています、この争いはソ連末期に各地で構成国が独立を主張する中モルドバは当初ルーマニアとの統合を目指す声が強かったのでロシア系やウクライナ系と言ったロシア語話者の住民が危機感を抱き分離独立を主張したのがきっかけです。この争いはモルドバ独立後すぐに内戦にまでなりますがロシアが介入し沿ドニエストル側が勝利し以後この地域はモルドバの支配が及ばず半独立状態であり、また平和維持軍としてルーマニアモルドバ、ロシアの3ヵ国からなる部隊が駐留しています。

そんな状況ですが先にも書いた通り国民の3分の1はモルドバ人であることや残りの内半分も純ロシア系と言うわけでもないこともあり住民の多くが本気でモルドバとの分離を願っているかと言うとそうでもなく、またロシアから見て完全な飛び地であり、面積も小さくクリミアのように圧倒的にロシア系が多いわけでもないので他の地域と比べると獲得に積極的ではなく実際2014年にクリミア併合を受けて沿ドニエストル側が出したロシアへの統合要請を無視しています。

またモルドバの方も沿ドニエストル問題に関してはロシアに比較的宥和的です、というのもモルドバは天然資源がろくに取れないので石油やガスを完全にロシアに依存している上に輸出品の輸出先もロシアが主要な場所となっていて経済的な結びつきが非常に強く、政治においても親ロ派の影響力が他の旧ソ連構成国と比べると比較的強いです。なので沿ドニエストルに駐留するロシア軍の撤退を何度も求めているものの強い行動はとってません。そんなわけで比較的ロシアに近いこともあって憲法にははっきりと中立国であることが書かれていますし実際経済的観点からEUへの加盟は希望しているもののNATOへの加盟は一歳希望していません。

今回の発言の意味

さてざっとモルドバ沿ドニエストルについて書きましたがここまで読んだらなんとなく今回の主題であるロシアの司令官の発言のヤバさがわかるでしょう、今回の発言からは2つ重大なことが読み取れますそれが

①例え中立であってもロシアの攻撃対象になりうる

②どんなにロシア系住民が少数で迫害の事実がなくてもロシア系の保護を理由に攻撃対象になる

と言うことです。

①に関して影響を与えるのがウクライナとの停戦交渉とフィンランドNATO加盟に関することです。ロシアによるウクライナ侵攻の目的としてロシアはウクライナの中立化、簡単に言えばNATO加盟阻止を挙げています。なのでウクライナも停戦交渉において自国の中立化に前向きな姿勢を示しています。ですが今回の司令官の発言からはたとえ中立を憲法で示している国でもロシアにとっては攻撃対象になりうると感じさせてしまうのです、これではウクライナは中立を明言してもロシアの攻撃対象になり続けると言ってるようなものであり中立を宣言することは無意味なこととなってしまいます。これは今後の停戦交渉においても大きな影響を与えるでしょう、なんせロシアの要求を呑んでも再度侵略される可能性が高くなったわけですからね。

またロシアは現在隣国であるフィンランドNATO加盟について大きな警戒感を露にしており核兵器による恫喝でなんとかしようとしている状況ですが、今回の発言でフィンランドNATO加盟に対する気持ちはより強くなり本当にNATOに加盟してしまうかもしれません。フィンランドは安全保障において隣国であるロシアとの関係から中立を採用しており、EUには加盟してもNATOには加盟していませんでした。ですが中立であっても安全であるとは限らないと分かった以上中立であり続ける意味は薄れました、だったらNATOに入って安全を確保したほうがいいと判断してしまうでしょう。

アイヌとロシア

次に②についてですがこれもまた結構衝撃的なことです、先ほども触れた通り沿ドニエストルにおけるロシア系住民は多数派ではないですしロシア語話者に限っても圧倒的多数ではないです。ですがロシアはそのような地域でも介入する姿勢を見せました、これはつまり一定数以上ロシア系住民がいればロシアの侵略対象となり得ると言うわけです。

これは日本も当然例外ではありません、最近ロシアはアイヌ人をロシアの極東地域における先住民として認めました。その頃からアイヌ民族の保護を理由に北海道に侵攻する可能性が一部懸念されていましたが、流石にこの段階では現実味がなさすぎて半分陰謀論のような過剰反応と言っても過言ではありませんでした。ですが今回の発言でそのシナリオが完全に現実で起こり得ないとは言えないこととなったわけです、とはいえそれでもまだ可能性としては限りなく0に近いほど低いです。

というのもアイヌ人はウクライナ沿ドニエストルと違ってスラブ系のいわゆるロシア民族ではないことや、アイヌ人は今のところ日本政府が弾圧をやめていく方向に変えたこともあってか独立した政府を作ろうとする機運がない要するにロシアに介入できる口実がないからですね。もちろんロシアの動きを警戒する必要はありますが、ネットで見かけるパニックを煽る愚か者たちの言説を間に受ける必要もないでしょう。

ところでおそらく今回のロシア司令官の発言をおそらくロシアの意図しないところで最も恐れているであろう国があります、それが中央アジアにあるカザフスタンです。

ウクライナフィンランドカザフスタン

カザフスタンとロシアについては前にも触れたことがあるので詳細は省きますが、カザフスタンは独立以来ロシアとの関係を重要視する一方で欧米や中国とも関係を深め更にキリル文字を廃止するなど脱ロシア政策も行なっていました。ですが今年一月に全国の大規模なデモの対応を巡って政権内で争いが起き、建国の父であり院生を敷いてた初代大統領であったナザルバエフ氏は失脚し代わって現職の大統領であったトカエフ氏が実権を握りました。トカエフ大統領はデモの鎮圧と権力奪取のためにロシア軍の派遣を要請しており、カザフスタンにおける自国の影響力を拡大させるためにプーチンは喜んで軍を送り無事トカエフ氏に権力が渡りました。

プーチンとしては第二のベラルーシが手に入ったと大喜びしたでしょうし実際その時は私を含め多くの人がトカエフは対ロ従属政権になると思っていました、まあこれは同じように反政府デモが起こってロシア軍を頼って鎮圧したベラルーシが半ばロシアの傀儡となってしまった例があるからですね。ところが2月末にウクライナ侵攻が起こるとカザフスタンはロシアと距離を置き始めたのです、ロシアはカザフスタンウクライナ侵攻に際して出兵を求めましたが(もちろん戦力として期待したわけではなく味方がいることをアピールするため)カザフスタンはほんの1ヶ月前に助けてもらったばかりなのにその要請を拒否したのです。そればかりか東部の傀儡国家の独立を承認しませでしたし、ロシアの「特別軍事作戦」を早くから侵攻と呼び「特別軍事作戦」の呼称を明確に拒否し更に国内でウクライナ支持のデモを行いことを認めました。

なぜトカエフ大統領はこのようにロシアに恩を仇で返すような行動に出たのかというと、カザフスタンにもウクライナ同様多数の(全国民の2割ほど特に北部に多い)ロシア系住民がいて潜在的な脅威に側面しているからです。実際ロシアのエリツィン前大統領はかつてロシア周辺において4つの地域で国境を見直すべきだと主張したことがあります、その4つとはジョージアアブハジアウクライナのクリミアそしてドンバス地方、最後がカザフスタン北部です。見ての通りカザフスタン北部以外は実際にロシアが侵攻し傀儡国家を作ったり編入しました、更にプーチン大統領は2014年に「カザフ人は独立した国家を持ったことがない」ととんでもない発言をしています。実は思っている以上にカザフスタンとロシアは領土を巡って対立しているのです、実際1999年にはカザフスタンからの分離独立を目指したロシア系住民の組織が武装放棄を起こしかけてますし、クリミア併合を受けてナザルバエフ前大統領は中国に自国の安全保障を頼んだらしいです。

なので今年のウクライナ侵攻を受けてトカエフ大統領は次は自分たちの番だと思い距離を置き始めたのです、カザフスタンのロシアに対する信用は今回の侵攻で大きく傷つけられたわけですが今回の司令官の発言によってほぼ完全に失われたと言ってもいいでしょう。なにせ中立国であっても攻撃対象になるわけですし沿ドニエストルのような地域でも介入するわけです、カザフスタン沿ドニエストル以上にロシア系住民が多くまた今回のウクライナ侵攻に対する対応でロシアと距離を置いたのでいつ侵攻されてもおかしくない状況になりました。なんならこれ以上ロシアが介入出来そうな地域はないので次ロシアが対外侵略をするなら間違いなくカザフスタンでしょう、なのでカザフスタンはの取る道は2つです。1つはベラルーシのようにロシアの傀儡となる、もう1つは今後ロシアと距離をますますとっていくそして恐らく後者をカザフスタンは選ぶでしょう。

カザフスタンの接近先

もちろんカザフスタンが完全にロシアと距離を取るのは困難ですが安全保障面でロシア以外の庇護先を見つけるのは確かでしょう、そうなると考え得る最も可能性の高い相手は中国です。カザフスタンは現在でも独裁体制を築いているので欧米に安全保障を頼むのはあまり現実的ではありません、なので同じ独裁国家で国境を接するほど近くなおかつ近年盛んに経済進出をしている中国はかなり魅力的なパートナーでしょう。

しかしトカエフ大統領政権下のカザフスタンと中国には実は距離があるのでトカエフ大統領は欧米にも接近はするでしょう、ちなみになぜ距離があるのかというと1月の政変で中国が支援を申し出たのにそれを拒否した上、親中派で知られていたライバルでナザルバエフの側近のカリム・マシモフ氏を国家反逆罪で逮捕したからですね。

欧米への接近がどこまでのものかは分かりませんが下手するとアメリカ軍に基地提供をすることだってあり得ます、今は違いますが中央アジア独裁国家であるウズベキスタンは2000年代初頭までロシアと距離を置くためにアメリカと接近していて自国の基地を提供したりしてたのであり得なくはない話と言えるでしょう。

カザフスタンの今後の動向が気になるとこですがもしカザフスタンが中国と急接近すればロシアは中央アジアにおける影響力を中国に奪われ欧米に接近すれば西だけでなく南側の国境まで嫌いな米軍と接するわけです。どっちにしろロシアにとって全くいい結果にはならないでしょう。

ロシアの今回の侵攻における成果

さて、最後にロシアのウクライナ侵攻によって得したものと損したものについて書いて終わりにしたいと思います。ロシアが今のところ得したものとしては以下です

・ドンバス地方の大半の制圧

ヘルソン州の制圧

プーチン政権への大幅な支持率上昇

一方損したものは以下です

・大量の人命

・大量の兵器(黒海艦隊の旗艦モスクワなど)

・多くの将校クラスの指揮官

・SWIFTからの排除

・多くの海外企業の徹底

・国際的な信頼

・多くの対外資産の凍結

・将来的な石油・天然ガスの欧州市場の喪失

ウクライナの強烈な反ロ化

NATO加盟国間の団結

フィンランドおよびスウェーデンNATO加盟に向けた大幅な前進

カザフスタンの離反

etc…

もちろんここに挙げたのは私の主観で選んだものですが明らかに得たものと失ったものが釣りあってない気がします、特に安全保障面に限定すればウクライナNATOに入れないようにしてまだ未確定ではあるもののウクライナの強烈な反ロ化と軍備増強、フィンランドNATO加盟、カザフスタンの離反をわけですから完全な損でしょう。これで本当にウクライナNATO加盟を阻止できたところでウクライナが安全保障上の脅威になりフィンランドカザフスタンに警戒しなければならなくなるわけですからね、1歩進んで3歩下がるようなものです。

プーチンはいい加減現実を受け入れて一刻も早くこの無意味な戦争を終わらせるべきでしょう、それでは今回はここまでまた次回。

ロシアから独立する地域はどこか?

ロシアによるウクライナ侵攻からすでに百日以上が経過しました、開戦当初は私を含めほんの数日でウクライナが敗北するとの予想が大多数でしたが蓋を開けてみるとウクライナは相当善戦しロシアは未だに決定的な勝利を得られてない状況です。さてこのように戦争が長期化して多くの負担をロシアが負っている中、この戦争が終わってからロシアがかつてのソ連のようにいくつかの国に分裂してしまうのではないかという意見を耳にします。実際ソ連崩壊のきっかけの一つは長期化したアフガン戦争による大きな負担がのしかかったというのがあるのであり得なくはない話です、というわけで今回はそのことについて書いていこうと思います。

ロシアの行政区分

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(ロシアの行政区分の地図)

というわけでまずはロシアの行政区分を見てその中で独立しそうな地域を探してみましょう、日本の「都道府県」に相当するロシアの行政区画には、州、地方、市、共和国、自治州、自治管区がありそれらは「連邦構成体」と呼ばれています。この連邦構成体は「地域」と「民族」と言う二つの異なる概念を軸に作られており、ちょうど日本の行政区分のように作られているのが州、地方、市で日本には存在しないものですがロシア以外の少数民族が住んでいるなどの理由で作られているのが共和国、自治州、自治管区です。

つまりもしロシアから独立しそうな地域があるとすれば民族を基に制定されている共和国、自治州、自治管区のいずれかである可能性が高いです。ですが自治管区はどれもが少数しか人が住んでない北極圏に作られたものなので独立する気はなさそうであり、

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(ロシアの自治管区一覧、失礼ながら地球でも類を見ない僻地である)

自治州は今のところユダヤ自治州と言うソ連時代ユダヤ人の住む地域として作られておきながらスターリンによる大粛清の結果数十年に渡ってユダヤ人が人口の1%しかいないというよく分からない状況になっている地域のみなので現実的に独立できそうなのは22個ある共和国のみでしょう。

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(唯一の自治州であるユダヤ自治州、ユダヤ人と縁もゆかりもない中国との国境付近に存在しユダヤ人が人口の1%しかいないよくわからない場所)

ロシア連邦の共和国は基幹民族と呼ばれる国民国家を持てる規模の少数民族に与えられる地域で独自の大統領(最近はプーチンのせいで呼び名が首長に代わってる)、議会、憲法公用語を持ち、中央政府とは違った法を施行し独自の法が優先される為時折ロシア連邦憲法と矛盾し衝突を起こすほどです。またロシアの共和国の中心となっている基幹民族は当然スラブ系のロシア民族とは全く違うので住民の中にも一定数独立志向の人がいることから戦争が長続きしロシアに愛想を尽かせば独立する可能性は大いにあり得ます。

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(ロシアに存在する共和国の一覧、ちゃっかりクリミアも入っているがこれは一旦おいときます)

しかし実際にはこうした共和国もその多くはロシアから独立する可能性は低そうです、なぜなら多くの共和国は長年に渡ってロシアと同じ国家でいた結果元々基幹民族の土地であったのにロシア民族がどんどん移住していき結果住民の半数以上ががロシア民族である地域が多いからです。今のところロシア民族が過半数の共和国が8つ、過半数ではないものの一番多くを占めている地域が2つとクリミア共和国を含め22個ある共和国の内実に半数ほどがロシア民族が主体の国となっているのです。

それに加えていくら地域のロシア民族でなくても住民にロシアから独立する意志がなければそもそも独立するには至らないでしょう、実際ソ連崩壊時にロシア連邦に所属していた各共和国は独立するかロシアに留まるか選択できたのですが一時的にでも独立を選んだのは僅か4つだけでした。つまり長々と色々書きましたが独立の可能性を含んでいるのは事実上この4つのみである可能性が高いと言うわけです、というわけで次はこの4つの候補国を紹介していこうと思います。

4つの候補

サハ共和国

まず最初に紹介するのがロシアの極北に位置するサハ共和国です

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(サハ共和国の位置と「国旗」)

サハ共和国でまず注目すべきはその面積の大きさです、この国はロシアの行政区画の中でも最大の面積を持ちその広さは310万㎢であり日本のおよそ8倍にも及ぶ広さで仮に独立した場合世界第7位のインド(329万㎢)についで第8位になることとなります。しかしこれだけの広い面積を擁していながら人口は100万人に満たないと言う極めてアンバランスな地域でもあります、この100万の内サハ共和国の基幹民族であるサハ人は全体の45%ほどでそれについで多いのはロシア人で40%ほど、後は旧ソ連圏の様々な民族で占められています。

サハ共和国の経済の中心は広大な国土に生えている針葉樹林からくる林業と地下に眠る豊富な天然資源です、特に天然資源は非常に豊富で例えばロシアは世界1のダイヤモンド産出国ですがその99%がサハ共和国産ですしこのほかにも金や石油、天然ガスに石炭などが豊富に取れ少し変わったとこでは象牙の代替品として近年注目されているマンモスの牙も盛んに採れています。

ここまでがサハ共和国の簡単な紹介ですがこの国はソ連崩壊時に一時期独立を宣言しました、ですが結局ロシアと交渉し残留することを選択します。その理由としては経済的な事情からです、いくら天然資源が豊富とはいえこのように辺鄙な土地では輸送コストが高くつきますし食料品を始め多くの物品を輸入しなければなりません、またそもそも人口が少ないので労働力はロシアの他の地域頼みです。そんな中独立しても国として立ち行けるかかなり微妙だと言えましょう、実際ロシアは日本で言う地方交付税交付金の制度がありますがサハ共和国は最近まで中央に支払う税金より中央から支給される支援金の方が多い状態でした。

とはいえ近年では技術の進歩や地球温暖化の影響で北極付近の開発が進み新たな油田が掘られたり北極航路が注目されていてその拠点となる港の一つがサハ共和国に存在することから今後経済的に大きく発展すればまた状況は変わるかもしれません。

トゥヴァ共和国

次に紹介するのはモンゴルと隣接しているトゥヴァ共和国です

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(トゥヴァ共和国の位置と国旗)

トゥヴァ共和国の国土は17万㎢でこれは大体日本の半分ほどの大きさです、そしてそこに35万人ほどの住民が住んでいます。先程紹介したサハ共和国と比べると面積と人口のバランスはマシですがそれでもかなり人口密度が低い地域と言えるでしょう、主要な産業鉱業ですがサハ共和国のように豊富ではなく他にも畜産や林業、毛皮輸出もしてますがどれもそう大きな規模ではないです。

この国で特筆すべきは辿ってきた歴史です、この国は実は一時期30年近くも独立国として存在しソ連崩壊後の独立も含めると実に3回もロシアに編入された地なのです。この国は元々清の領土でしたが1911年に辛亥革命が発生するとロシア帝国の支援のもと「独立」しその後1914年にロシア帝国保護領としてその領土に組み込まれます、これが1回目の編入です。

しかしその僅か3年後1917年にロシア革命が発生すると当然トゥヴァもその影響を受け革命勢力がこの地を占領します、ところが成立したばかりのソ連はこの地を自国に組み込むことをしませんでした。その理由としては中華民国との関係が挙げられます、辛亥革命後に誕生した中華民国清朝の旧領を国土に主張したので当然トゥヴァもその中の一部でした。そして中華民国は当初ソ連に歩み寄る姿勢を示していたので国際的に孤立していたソ連としてはこんな小さく貧しい領土のために中華民国と争うこととなるのは避けたかったのです。結果としてこの地はソ連でもなく中華民国でもない独立国「トゥヴァ人民共和国」として1921年に独立し1926年にソ連とその傀儡であったモンゴル人民共和国から承認を受け世界第3番目の社会主義国家として歩みはじめます。

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(トゥヴァ人民共和国の国旗)

しかし実態は言うまでもなくソ連の傀儡で実際ソ連編入されるまでの間独立を承認したのはソ連とモンゴルの2ヶ国だけでした、とはいえ一応は独立国なので実は独ソ戦で最も早くソ連支持を表明した国であったりします。そしてこれに関連する面白いエピソードとしてトゥヴァ人民共和国ナチス・ドイツに宣戦布告した際にヒトラーは世界地図を広げたがこの国を見つけることはできなかった…と言うのがあるらしいです。そして大戦中の1944年10月11日と言うなんとも中途半端な時期ににソ連トゥヴァ人民共和国の加盟申請を受け取りトゥヴァはソ連の一部となり構成国の一つであるロシア・ソヴィエト社会主義共和国に編入されます、こうしてトゥヴァは再びロシアの領土となったのです。

その後1991年にソ連が崩壊するとトゥヴァは独立を宣言します、しかし翌年にはロシアと交渉しロシア連邦に加盟します、これがロシアへの3度目の編入です。どうしてトゥヴァが独立を撤回したのかと言うと単純に経済的な理由です、トゥヴァには目立った産業もなく天然資源も多くないので独立国として存続するのはかなり無理のある話だったのです。結果としてトゥヴァ共和国は住民の8割以上が基幹民族のトゥヴァ人でロシア民族がかなり少ない珍しい地域でありながら一向に独立の気配がないままとなっています。

タタールスタン共和国

次に紹介するのはタタールスタン共和国です

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(タタールスタン共和国の位置と国旗)

タタールスタン共和国はロシアの西側に位置する国家で面積は6万8千㎢と東北地方と同じくらいの大きさでこれまで挙げたサハ共和国トゥヴァ共和国と比べると面積では小さな国です、しかし人口は400万人とロシアの共和国の中では最大の規模で経済的にも非常に発展している地域です実際この国の首都であるカザンはモスクワ、サンクトペテルブルクに次ぐロシア第三の都市の座を争ってる街の一つです。タタールスタンは規模の大きなガス田があり単に資源が取れるだけでなくそれを基にした石油化学工業や機械工業が非常に発展していて近年ではIT分野での発展もめざましい地域です。

なのでこれまでの2国と比べるとロシアからの独立に伴うデメリットが小さくそのこともあってかソ連が崩壊すると独立を宣言します、一時期は後述するチェチェンに次ぐほど強硬な姿勢を打ち出していたので本当に独立するのではないかと見られていました。ですが結局この国は独立することなく未だにロシアに留まっています、その理由としてはこの国の置かれた立場を見るとわかるでしょう。

まずタタールスタンは外国と接しておらず周り全てを完全にロシアに囲まれています、またタタールスタン共和国の住民は基幹民族であるヴァルガ・タタール人が53%、ロシア人が40%残りをその他の民族が占めていると言う構成となっています。つまり仮に独立した場合タタールスタンは周りを全て大国であるロシアに完全に囲まれているだけでなく、国民の4割が囲んでいる国の住民の同胞であると言う非常に危うい国として生きねばならないのです。また基幹民族であるヴォルゴ・タタール人は実はタタールスタン以外のロシア各地にも居住していてロシア最大の少数民族となっています、つまりタタールスタンが独立した場合ロシア最大の少数民族としての影響力を失うばかりか他の地域に住む同胞についても気にかけなければならないのです。

こうした事情を踏まえてタタールスタンはロシアからの独立を諦めました、ただしただで諦めたわけでなくロシアと交渉し他の共和国とは違いかなり対等な関係でロシア連邦に加盟しています。例えばタタールスタン共和国は外国政府との関係構築の権利などを手に入れていて現在、ロシア国内外にタタールスタン共和国の代表部(大使館のような機関)が設置されたりしています。

つまりタタールスタンはロシアから独立することは諦めましたがロシアの中で影響力を持つ地域として歩むことを決めました、経済的に発展し多くの人口を抱えているにもかかわらずこうなった大きな理由としては他国と国境を接してなかったことやロシア民族が多く居住していること、域外に自分たちと同じ民族が多く居住していることが挙げられるでしょう。ではもしこうした障害がなく住民の独立心が高かったらどうなるでしょうか?最後に本気でロシアからの独立を目指した地域を紹介しようと思います。

チェチェン共和国

最後に紹介するのがこのチェチェン共和国です

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(チェチェン共和国の位置と国旗)

チェチェンはかつてロシアから独立しようとした地域でそれを阻止しようとしたロシアとの間に2度に渡るチェチェン紛争と呼ばれる大規模な戦争が発生した場所です、ここに至るまでの経緯や戦争について書くとそれだけでこの記事もう一本分くらいの量になるので簡単な紹介だけにとどめますが。簡単に言うとロシア帝国1860年代に編入されてからもずっと抵抗し続けた地域でそのためにスターリン時代そこを警戒されてシベリアや中央アジアへの強制移住が行われチェチェン人の4割が死ぬような弾圧を受け、その後も現地で豊富に取れる石油の富を全て奪っていくロシアに不満が高まったことからソ連崩壊寸前に独立を宣言しそれに反対するロシアがチェチェンに軍事介入、一旦和平が結ばれるものの独立強硬派がテロ行為を行い当時首相に就任したばかりのプーチンが政権基盤を固めるために大規模な軍事介入を再び行いチェチェン人の4分の1が亡くなるほどの激しい争いを経て鎮圧したと言う流れです。

さてそんなチェチェンですが面積は1万5千㎢と四国よりも小さい国ですが人口は110万人と人口密度はこれまでで一番高いです、そして住民の95%が基幹民族であるチェチェンでロシア民族は2%しかないと言うロシアにしては珍しい地域です。こうなったのは言うまでもなくチェチェン紛争の影響です、ソ連崩壊前の1984年の調査ではチェチェン共和国の前身であるチェチェン・イングーシ共和国では150万の人口の内3分の2がチェチェン人で残り50万人の内イングーシ人とロシア人が半分を占めていました。

このイングーシ人というのは民族的にはチェチェン人と全く同じですがロシア帝国に抵抗せず早くから恭順したグループをロシアが区別し分離させ成立した人々です、なのでロシアからの分離独立には反対の立場をとっていてチェチェン人と対立していましたがチェチェンから分離独立することで双方が合意しチェチェン・イングーシ共和国はイングーシ共和国とチェチェン共和国に分裂しました。この結果イングーシ人はチェチェンから消えその後のチェチェン紛争でロシア人がチェチェンから避難しこのような民族構成となったと言うわけです。

そんなチェチェンですが近年は経済発展がめざましい地域です、というのもロシア中央政府が相当大規模な経済支援をしているからです。ロシアは2回のチェチェン紛争を経てこの地域を力ずくで押さえつけ続けることは困難であると感じました、なので大量の補助金を与えることで経済支援を行い発展させることで懐柔しようと目論んでいるのですそしてチェチェンは紛争によって壊滅的な被害を受けたためロシアの補助金なしには成り立たない状況です。またロシアの懐柔はそれに留まらずチェチェンの指導者にも及んでいます、今のチェチェン共和国の指導者はラムザン・カディロフという人物なのですが

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(ラムザン・カディロフ)

彼の父であり彼の前の代のチェチェン共和国の指導者であったアフマド・カディロフは実は第一次チェチェン紛争の時の独立派チェチェン人のリーダーの一角だったのです。ですが停戦後アフマド・カディロフチェチェン人内での政治争いに負けチェチェン独立派の政権から追い出されてしまいます。そしてそこに目をつけたのがプーチンです、彼はチェチェン人を外部であるロシアが抑えつけることは困難だと考えチェチェン人の一部をロシアに寝返らせ統治した方がいいと考えていました。そこで政権を追われたかつての指導者に手を貸したというわけです、こうしてカディロフ親子はチェチェンの支配者となりました、彼らはロシアから独立をしないので有ればチェチェンで何をしてもいいことになってます。

大量の補助金とカディロフ親子の擁立、この2つでチェチェン共和国は今のところロシアからの独立を目指さない方向でいるのです。

ロシアから独立するのはどこか?

さてここまでロシアから独立宣言したことのある地域を紹介しましたが、この中で果たして独立する地域はあるのでしょうか?今のところ独立する気のある地域は無さそうです、どの共和国も主に経済的な事情と安全保障上の理由から独立を躊躇しています。実際今回の「特別軍事作戦」でもサハ共和国タタールスタン共和国の大統領は侵攻が始まってから3日以内にプーチンを支持する声明を出していますしチェチェン共和国のカディロフに至っては自分の私兵であるカディロフツィをウクライナに派遣しています。

とはいえ今後どうなるかは不透明です、経済的な事情で独立を躊躇しているということは逆に言えばロシアに留まる経済的なメリットがなくなったら独立への機運が高まるということだからです。サハ共和国は今回の経済制裁で天然資源が売れなくなりますし、タタールスタン共和国経済制裁でロシアの巻き添えを食らって苦しくなります。そうなるとロシアを抜け出して制裁逃れをしたいと考えるかもしれません、またトゥヴァ共和国は今回の経済規模が小さくて大きな影響は受けないでしょうがそれでも苦しくはなるでしょうしそんな状況で中国が経済支援を申し出たらロシアにいる意味がなくなるでしょう。チェチェン共和国の場合は補助金を減額されたり打ち切られたりするかもしれませんがそうなったらカディロフは間違いなく反乱を企てるでしょう、実際彼は以前チェチェン以外の地域の警察官がチェチェンに侵入した場合射殺するように命じたりしてるなど中央政府への忠誠心はないに等しく金で繋がってるだけだからです。

どっちにしろロシアは経済的な力と軍事力でこれらの国を留めているだけなので経済が悪化し軍事力が低下すればソ連崩壊時のように一部の共和国が独立しようとする可能性も0ではないと言えるでしょう、それでは今回はここまでまた次回。

 

 

 

 

 

サッカーがきっかけで起こった戦争

戦争というのは意外なことがきっかけで起こることがあるので油断することはできません。実際スポーツで対立する国の選手同士が戦うと下手すると両国の外交関係に影響を与える場合があり実際それで戦争になった例があります。という訳で今回はサッカーの試合がきっかけで起こった戦争を紹介しようと思います。

サッカー戦争

サッカーの試合がきっかけで起こった戦争は実際にあり、そのままサッカー戦争と呼ばれています。この戦争で戦った国は中米にあるエルサルバドルホンジュラスという国です、

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もちろん単にサッカーの試合だけが原因で戦争になるわけがなく両国の長年に渡る外交、貿易、移民上での対立及び両国の国内情勢が主たる要因ですが戦争直前に行われたFIFAワールドカップの予選が両国の対立を激化させ戦争を煽るきっかけとなってしまいました。なのでまずは戦争前の両国の状況について書いていきます。

戦争前の両国の状況

この戦争が起こる前のエルサルバドルホンジュラスは様々な面で対立していました、まず両国は国境を巡って争っていました。なぜなら両国の国境は山や河川を基準に定められていましたが、問題はこの河川が熱帯雨林気候にはよくあることですが雨季と乾季で流れが変わってしまうため不明瞭であったからです。なので両国はこの不明瞭な国境線のせいで対立をしていてしばしば衝突をしていました。

次に対立をしていたのは貿易問題です、エルサルバドルは当時工業化が進んでいたのに対しホンジュラスは工業化が進んでいませんでした。そんな中両国を含む中米は当時アメリカの働きかけで域内自由貿易協定を結んでおり、同時にエルサルバドルは後述する様に国内の貧富の差が大きく国内市場が貧弱だったことからホンジュラスに積極的に工業製品を輸出していました。工業化の進んでないホンジュラスに大量のエルサルバドル製品が輸出されるとどうなるかは火を見るよりも明らかですが、案の定ホンジュラスの工業は打撃を受けました。そしてその結果ホンジュラスエルサルバドルに対し不快感を抱くことになってしまいます。

そして両国が最も対立していたのは移民問題です、地図を見れば分かりますがエルサルバドルホンジュラスと比べると国土が圧倒的に小さいです、しかし人口で見た場合国土の割にエルサルバドルは人口が多く実際人口密度で見るとエルサルバドル中南米一人口密度が高い国でした。更にエルサルバドルは貧富の差が非常に大きい国でした、国の富のほとんどは14家族と呼ばれる財閥に集中していて彼らは国土の多くを所有していました。結果エルサルバドルの国民の多くは生活のためホンジュラスに移民していてその数は30万人から60万人にも及んだと言われています、ちなみに当時のホンジュラスの人口は250万人だったのでいかに多くの移民が来たかがわかるでしょう。とはいえホンジュラス政府は当初このエルサルバドルから来た移民を歓迎していました、なぜなら彼らは国境近くの未開の地を開拓してくれることやホンジュラスの主要産業であるバナナ農業の労働力となったからです。しかし時代が経つにつれバナナ農業は機械化で人手が要らなくなり、土地はホンジュラスでも人口増加で不足し始めたので移民が邪魔になりました。なので戦争前にはこの大量の移民を巡って両国は対立していました、そして両国が上記の3つの問題から国境近くで小競り合いが始まっていた頃ワールドカップの予選が開催され両国は試合でぶつかることになりました。

ワールドカップ予選

1969年6月8日ワールドカップ北中米予選準決勝で両国はぶつかることとなります、この試合の直前ホンジュラスエルサルバドル移民の強制退去を始め2万人にも及ぶエルサルバドル移民が家を失って母国に引き揚げていました。そんな中第一試合はホンジュラスの首都テグシガルパで行われホンジュラスが1-0で勝利します、ただしこの時ホンジュラス側のサポーターがエルサルバドル選手の泊まるホテル前で騒音を鳴り響かせるなどの妨害行為を行なったので純粋な勝利とは言い切れませんがこうした妨害行為は中南米では国民感情に関わらずよくあることなのでこの時点ではまだ平和に進んでいました。しかしこの試合の後いよいよ両国は戦争へと進んでいきます。

第一試合の敗北を受けてエルサルバドルでは18才のある一人の少女がこれを理由に自殺をしてしまいました、当時このことはかなりセンセーショナルに報じられ彼女の葬式には大統領や大臣なども出てテレビで全国中継されるほどの騒ぎになりました。そんな中6月15日第二試合はエルサルバドルの首都サンサルバドルで行われることになりました、なんだか嫌な予感がしますが実際とんでもない事態になりました。半ば暴徒と化した群衆はホンジュラス代表の泊まるホテルに押し掛けると自殺した少女の肖像画を掲げながら罵声を浴びせ、石を投げ、割れた窓から腐った卵やネズミの死骸を投げ入れました。幸いエルサルバドル武装隊が護衛していたので選手たちに直接危害は加えられませんでしたがホンジュラスのサポーターはこの限りでなく集団暴行による死者が2名出ましたし150台のホンジュラスサポーターの車が放火されてしまいました、試合は3-0でエルサルバドルが勝ったものの両国の国民感情は一気に悪化してしまいます。そして勝敗数が並んだため第三試合が行われることとなりました。

第三試合は6月27日に中立国のメキシコの首都であるメキシコシティで行われました。試合はメキシコによるかなり厳重な警備のもと行われましたまずスタジアムの収容人数を10万人から2万人に減らし、両国のサポーターは入り口から席に至るまで完全に徹底的に分離し両者の席の間には催涙弾を装備した重武装警官を配備しました。この徹底した対策で試合自体は平穏に進み試合結果は3-2でエルサルバドルが勝利しましたが、この試合の裏では不穏なことが続いていました。ホンジュラスでは第二試合の敗北の後からエルサルバドル移民への襲撃事件が増えエルサルバドルはこれを非難し国家非常事態宣言を発令し総動員を開始、そして第三試合が行われた6月27日に断交を宣言しこれを受けてホンジュラスも国防上の備えをすると発表し7月に入ると小規模な戦争が始まりついに全面戦争に至ります。

サッカー戦争

そして7月14日エルサルバドル側の奇襲攻撃から全面戦争が始まりました、当時のホンジュラスエルサルバドルの軍事を比べると空軍力ではホンジュラス側はエルサルバドルの2.5倍もの航空機を持つなど圧倒していたものの、陸軍力ではエルサルバドルと人数が変わらない上練度や組織力ではむしろエルサルバドルの方が勝っていました。なのでエルサルバドルとしては奇襲攻撃を仕掛けることで空軍力の差を無くそうとしたわけです、そして奇襲作戦は上手くいきましたが予想より大した成果をあげられずホンジュラス空軍の報復でエルサルバドルは本国にある石油タンクを攻撃され3分の1を破壊されてしまいます。とはいえ戦争自体はエルサルバドル優勢に進み、各地で快進撃を始めていました。ですが開戦から1日ほどで空爆の影響で石油が不足し始めホンジュラス側も徹底交戦に出たので戦線は膠着してしまいました、こうして事情もあり国際連合が仲介に乗り出しますがエルサルバドル側は停戦に応じようとし、ホンジュラスにいるエルサルバドル移民に対する迫害行為を即座に停止させることを条件に停戦しようとしました。しかし侵略されて怒り心頭にのホンジュラスはこれに応じず北部から迂回してエルサルバドルに攻め込もうとしエルサルバドルはこれを受けて攻勢を開始するなどかなり大規模な争いになってしまいました。

ですが7月18日に事態を重く見たアメリカが仲介に乗り出し両国は停戦をしました、ですがエルサルバドル側は占領地からの撤退を拒否するなどかなり強硬な態度に出てそればかりかホンジュラス領内にある最前線を大統領が訪問するなどの挑発行為にでました。これに怒ったホンジュラス軍は大統領を狙撃し幸い怪我はなかったものの両国は緊張状態になってしまいます、ですがアメリカが両国に圧力をかけたことでエルサルバドルは撤退を始めホンジュラスエルサルバドルは8月3日に正式に戦争を終えました。この戦争による犠牲者は2千人から6千人、負傷者は4千人から1万2千人に及び国境沿いに済む多くの農民が家を失いました、犠牲者はほとんどがホンジュラス側であったのでこの戦争はエルサルバドルの勝利と言えるでしょう。サッカーの試合でも戦争でも勝ったエルサルバドルは大いに沸き立ちますがここからエルサルバドルは戦争は単に勝つだけでは意味がないということを表す事態に見舞われます。

戦後の両国、戦争は勝てばいいわけじゃない

戦争に勝利したエルサルバドルは熱狂状態になりました、ですがすぐにそれを忘れるような事態に直面します。まずホンジュラスにいた大量のエルサルバドル移民が追放されて母国に引き揚げてしまったことでただでさえ不景気気味だったエルサルバドルの経済は一気に悪化してしまいます、またエルサルバドルの主要な輸出品であった工業製品も戦争の影響で主要な市場であったホンジュラス市場から完全に閉め出されてしまい大打撃を受けました。この結果エルサルバドルではますます14家族のみに富が集中する事態となってしまい、彼らが贅沢な暮らしをする一方で国民の6割以上が貧困状態になってしまいました。それを受けて国内では左翼ゲリラがテロ活動を始め、それに対抗する右翼勢力がアメリカの支援の下反撃に出て一気に政情が不安定化してしまいました。そして1980年サッカー戦争による勝利から10年後、ついに大規模な内戦が発生します。この内戦は12年にも渡って続き犠牲者は7万5千人に及び内戦による破壊の結果エルサルバドルは一気に衰退してしまいました。

一方で戦争に負けたホンジュラスは大分事情が違います、戦争の結果ホンジュラス国民は団結しまたエルサルバドルの工業製品や移民を締め出したことで経済は多少良くなりました。結果隣国のエルサルバドルが内戦を繰り広げている間ホンジュラスは平和なままであり、政治的には極めて安定した状態でした。エルサルバドルホンジュラスも今では西半球で最も貧しい国であり治安は非常に悪いですが、かつてエルサルバドルは中米一の工業国であり治安も良かったのを考えると確実にサッカー戦争のせいで没落したと言えるでしょう。

ここから分かるのは戦争とはあくまで外交上の一つの手段であり、戦争に勝つこと事態にはなんの意味もないということです。両国ともサッカーの試合による国民感情に煽られて戦争を始めましたがエルサルバドル側は戦争に勝ったにも関わらず国境問題の解決はおろかホンジュラスに自国からの移民を追放しないという最大の目的を達成できませんでした。一方でホンジュラス側は戦争にこそ負けたものの不利な国境とならなかったばかりかエルサルバドル移民の追放に成功しそればかりかエルサルバドルの工業製品の締め出しにも成功しています、ホンジュラスは負けたにも関わらず戦争前の目的を全て達成できているのが分かるでしょう。戦争というのは何も考えないで始めてはいけないものですし、戦闘に勝つだけでなくちゃんとゴールを決めてそれを達成しないといけない、このことをサッカー戦争は良く示しています。

政治とスポーツ

同時にサッカー戦争からは政治とスポーツの関係について議論する際のいい例だと思います、この戦争は元々あった両国の対立がサッカーの試合つまりスポーツによって激化したため起こった戦争であるからです。政治とスポーツは今や密接に繋がってしまい今回の北京オリンピックではアメリカなどが人権問題を理由に外交ボイコットを行い、中国がスポーツの政治利用と批判していますが一方でその中国も聖火リレーウイグル人を使ったり一昨年の中印間の国境紛争で活躍した「英雄」をやはり聖火リレーに起用し更にオリンピックを利用して関係が深い国との友好関係を深めようとあからさまな政治利用をしています、しかしながらこれはある意味しょうがないものです。

政治とスポーツが密接に結びついてしまったのはスポーツを政治利用する政治家の責任でもあり、それを許したIOCなどの開催側の問題でもあり、それを煽ったマスコミの問題でもあり、それを受け入れた観客の問題でもあります。元々オリンピックなど国を超えたスポーツの試合は国と関係なく青年などがスポーツを通じて交流する場として設けられました、しかし時代が経つにつれて政治家は自国民の選手の活躍を誉めることで国民の団結を促し支持率を上げようとし、マスコミは商業的な理由からやはり自国の選手の活躍を煽り立てるような報道をし、IOCなどの主催者側はそうした方が盛り上がり収益が得られるからとこれらの事態を黙認し、我々観客はただ流されるままに自国の選手を応援し続けました。

私を含め皆さんの多くは日本と他の国の選手あるいは団体が戦った場合おそらく日本の方を応援するあるいはした経験が一度はあるでしょう。しかしそもそもこうしたスポーツというのは選手自身が活躍するものであり彼らがどこの国に所属しているかなんて本当は全く関係ないですし、ましてや国別にメダルの獲得数を争うことや良い成績を残した人をまるで国家の英雄のように扱うなんていうのは甚だおかしいことなのです。選手がいい結果を残したのはその選手が努力し周りの者が支えたからでありそこに国家の存在は本来ないのです、なので良い成績を残した選手単体を表彰するのが正しいはずですが残念ながら今や政治とスポーツは密接なものとなりある選手を表彰する際に同時にその選手が所属している国家ではナショナリズムの高揚に意図してかしらずか利用されています。

この空気はまるで本当に戦争を行なっているかのようで実際皆さんの中にも日本人選手を応援しないことを疑問に思う、あるいは応援しない人を軽く軽蔑したり奇異の目で見る人だっているでしょうがそれこそ戦時中のいわゆる非国民を見る目と同じような雰囲気です。なので自国の選手だからという理由だけで応援する人はある意味戦争になった際に賛成するような人である素質を持っているわけですが、まあかく言う私もどちらかと言うとそっち側の人ですしここには何も良いとか悪いとかはありません。

しかし恐ろしいのはスポーツで高まったナショナリズムが実際に外交の場で使われることです、サッカー戦争に限らず中南米ではサッカーの試合結果が引き金となって断交した例はいくつもありますしこれほどじゃなくても外交関係に影響を与えたスポーツの試合はあります。そしてサッカー戦争はその究極の形でありスポーツの政治利用に対する最大の警鐘となるでしょう、スポーツ結果が国家同士の対立を深め戦争の引き金になるこれほどスポーツを冒涜することはないですしこれほどくだらない戦争の始まり方はありません。ですが実際歴史上サッカー戦争という形でこうした事態はひき起こりました、そして一度実際に起こったと言う言うことは今後も同様のことが起こる可能性があると言うことでもあります。

ですが残念なことに政治家は今後もスポーツを政治利用するでしょうし、マスコミはスポーツに関連してナショナリズムを煽り立てる報道をするし、IOCFIFAなどの主催者側はそれを黙認するし、我々観客はそれを何も考えずにただ熱狂するでしょう。私ができるのは二度とサッカー戦争のようなことが起こらない様ただ祈るのみです。

このサッカー戦争は実に50年前の戦争でありながら戦争は外交上の手段に過ぎないことであることと、スポーツと政治に関することで非常に大きな意義を持つ戦争であるので個人的にもっと有名になってほしくて書きました。それでは今回はここまでです、また次回お会いしましょう。

 

 

アメリカの偽善で元奴隷のために作られた国家

以前奴隷貿易に関連することを話したましたが、その記事の最後に欧米列強によって植民地化されたアフリカ大陸の地図を出したのを覚えているでしょうか?その地図をよく見て見ると2つ植民地化されていない国があるのが分かるでしょう、一つは紀元前にその起源を辿れるエチオピアもう一つはリベリアと言う国です。

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エチオピアはコーヒーやマラソンなどで日本における知名度は高いですが、リベリアを知っている日本人は少ないでしょう。リベリアは元々アメリカの解放奴隷が作った国で国名もラテン語で自由を意味すLiberから来ています、また国旗の由来は言うまでもなく自由の国であり、建国を支援したアメリカから来てます。そう聞くとこの国があたかも奴隷から解放された黒人による自由の楽園と思うでしょう。しかし実際にはこの国は建国の理由自体人種差別的なものであり建国後も様々な問題を抱え長きに渡って内戦が絶えず、現在では世界最貧国の一つとなっています、というわけで今回はそんなリベリアの歴史を解説していきます。

アメリカにおける自由黒人問題

アメリカではご存知の通り長きに渡って奴隷制が合法であり、多くの黒人が奴隷として過酷な仕事に従事していた。とはいえ独立してすぐの19世紀初頭の時点でこの奴隷制に反対する人はすでに一定数おり、特に奴隷を労働力に使わない工業が主体の北部では奴隷制を廃止する動きがありました。これは奴隷制によって支えられた綿花農業が主体の南部との間に対立をもたらし後に南北戦争のきっかけにもなりますが、ここでは割愛させていただきます、そんなわけでアメリカ北部では奴隷から解放された自由黒人と呼ばれる人々がかなりの数いました。

しかし、この自由黒人に対する風当たりは北部でも南部でも強いものでした、北部の資本家たちは彼らを安い労働力として期待する一方犯罪を引き起こし治安の悪化につながると疎み、白人工場労働者は自分たちの仕事を奪うと同時に賃金を下げる存在と憎んみました。南部では言うまでもなく根強い差別があったことに加え奴隷の反乱を引き起こすのではないかと恐れられ、この他にも黒人は人種的に劣っているので自由にするにはまだ早いと言った考えや白人社会に黒人が適応するわけがないといった意見もあり、アメリカ社会において自由黒人の肩身は狭いものでした。しかし当時のアメリカがこの解決のために取った行動は現在の我々からは想像もつかないことでした。

黒人による植民地建設運動

当時の自由黒人に対してアメリカがとった解決策は黒人をアフリカに帰そうと言うものでした、この当時アメリカ植民地協会と呼ばれる団体ができ黒人問題の解決策としてアフリカへの移民を提唱し多くの人々の支持を得たのです。黒人の地位を上昇させるのではなく黒人をアメリカから追い出すことで自体の解決を図るこの政策は当然当時の自由黒人から猛反発を受けたましたが、時のアメリカ大統領であるジャクソン大統領の大きな支持を得たこともありこの計画は着々と進んでいきました。移住先はいくつかの検討を経たあと現在のリベリアに決まり1825年には最初の移民団が送り込まれ着々と植民地を発展させ、1847年にはリベリア共和国として独立したのでした。

新生国家の抱えた問題

しかし、リベリアは建国当初から問題を抱えることになりました。まず出てきた問題はアメリカからの移住者(アメリコ・リベライアン)と現地に住んでいた黒人との対立です。そもそもアメリカから移住してきた黒人は先祖がアフリカを出て何世代も経っていた上に黒人奴隷の出身は多くが現在のコンゴギニア湾あたりでした。

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例えるなら何世代もアメリカにいたベトナムアメリカ人やフィリピン系アメリカ人がいきなり日本に国を作るようなもので彼らの文化や価値観は原住民のそれと全く合いませんでした。またアメリカ帰りの黒人は自分たちは文明化されていると言う意識を持っており原住民である黒人のことを野蛮人として差別しました、こうした態度に原住の黒人もアメリコ・リベリアンを「黒い白人」と軽蔑し両者の溝は埋まらないほど深くなってしまうこととなります。その上人口の5%前後しかいないアメリコ・リベライアンは政治や経済の実権を握っていたので原住民の不満はたまる一方でした。

元被害者が加害者になる

こうしていきなり前途多難な様相であったが、独立した当初はなんとか安定した国家運営をしていました。しかし1870年代になっていくと主力産業であったサトウキビやコーヒーのプランテーションがブラジルとの価格競争に敗れ衰退し、経済的に不安定になっていった。この困難な状況に対してリベリアが取った解決策は驚くことに事実上の奴隷貿易をすることでした。リベリアアメリカのゴム企業と契約を結び原住民に事実上奴隷の様な労働をさせることで事態を打開しようとしたのです、しかしこのことは当時世界的に批判されてしまい、国際連盟に告発されるほどであった。しかしリベリアはそれにも関わらず次は原住民のスペインの植民地であった赤道ギニアに奴隷同然の出稼ぎ労働者として輸出をしました、当然このことは大きな問題になり時の副大統領が辞任する騒ぎにまで発展しました。つまりリベリアは奴隷の子孫たちがつくったにも関わらず奴隷貿易をしていたのです、元被害者が加害者になるとはなんとも皮肉なことです。ちなみに経済は結局アメリカが支援したことで持ち堪えましたが、そのせいでリベリアは経済をアメリカの支援に依存してしまうことになります。

原住民の反乱と内戦

とはいえリベリアも時代を経るにつれて国内のこうした状況を改善しようとする動きが出てきます、1940年代からアメリコ・リベリアンと原住民との格差を是正しようと様々な政策が採られました。しかしいずれの政策も根深い両者の格差を解決することができず両者の軋轢は募るばかりでした。そんな中1979年、政府はリベリア国民の主食である米の値段を上げることを発表しました。この目的は政府の懐に入る金を増やすためであったがこれを機に原住民の不満が爆発、原住民の部隊がクーデターを起こし政権を奪取しサミュエル・ドウ軍曹が政権を奪取、アメリカリベライアンによる100年以上の支配に終止符が打たれることとなりました。しかしこの新たな政権も原住民の部族間の対立や新たに大統領となったドウが独裁を進めたことから早くも危機的な状況になりドウが選挙で大掛かりな不正(都合の悪い投票箱を海に捨てるなど)をしたことから1986年からすぐに内戦になってしまい混乱は中々収まりませんでした。その後1990年にドウの元上官で反乱部隊の指導者であったプリンス・ジョンソンがドウを拷問の末殺害しますが、彼はこの時のビデオが原因で失脚しエーモス・ソーヤという人物が大統領につきますがこれに不満を持つ部族の武装勢力との間で内戦が続き1996年にようやく終結しました。

しかし1999年ごろからまた大統領をめぐる対立から内戦が起き2003年まで続きました、そして数十年に及ぶ断続的な内戦の結果リベリアは今や世界最貧国の一つですリベリアの一人あたりのGDPはなんと500ドル前後です、経済がここまでひどくなった理由として内戦だけでなくドウ政権の時にアメリカからの支援金が彼の懐に行ってしまったことや冷戦終結のため1992年からアメリカが支援を打ち切ったことが大きいです。

以下は私の感想ですが、そもそもこの混乱は黒人を奴隷として連行しその後奴隷制度を非人道的としておきながら黒人を差別しそれに伴う問題を解決しようとせず、黒人だからアフリカでいいだろうという地理を全く知らないバカな行動、あたかも外来種の動物をペットとして買っておきながら近所の公園に捨てる無責任な飼い主のような行動をとったアメリカが完全に悪いでしょう。そしてまた現実における外来種問題と似たような結果を引き起こしてしまったこともなんとも皮肉なことでしょう。今リベリアは内戦による惨禍から復興しつつありますが今度は非アフリカ系の国民(レバノン等中東系の人々)に選挙権を与えないでいることが国際世論を巻き込んだ新たな火種となっています、リベリアがその名のような自由の国になるまでの道のりはまだ遠いでしょう。