しば塾の世界史日記

世界史についていろいろ書いていこうと思います。

ヨーロッパの分断国家

皆さんは山田悠介氏の書いた「ニホンブンレツ」という作品をご存知ですか?これはざっくりいえば日本がある日政治的事情から東西に分裂してからしばらく経ったある日西日本出身で分裂後の東日本に住む主人公が恋人を探すために西日本に潜入するって作品です。私はこの作品を高校生か中学生の時に友人に勧められて読んだことがあるんですが日本が分裂する理由(すごく小さくてくだらない)と分裂してからの描写(国境全体に鉄の壁が建つとか)があまりにも滅茶苦茶でそこだけすごく良く覚えてあとはあまり覚えてないんですよね、他にも政治情勢とか社会情勢でツッコミどころは満載なんですが作品を読んでいる間はあまり違和感を感じさせないのはさすがだと思います。

それはおいといて現実の世界では様々な理由で元々1つの国だったのに別々の国になった例が幾つもあります、有名なのは朝鮮半島とか中国なんかですが今回は比較的マイナーなやつを紹介していきたいと思います。

1北キプロスキプロス

まず紹介するのはヨーロッパに浮かぶ島国であるキプロスです、この国は現在南部にキプロス共和国、北部に北キプロス共和国が存在している状態です。

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(北部が北キプロス、南部がキプロス、青が国連の設置した緩衝地帯、緑がイギリス軍基地の土地)

キプロスは美の女神ビーナスの誕生地とされる浜があるなど古代ギリシャの時代からギリシャ人が多く居住しギリシャの一部と呼んでも過言ではない場所でした、そんな状況が変わるのがオスマン帝国による統治が始まった頃です。オスマン帝国の統治下で多くのトルコ人キプロスに移住しまたギリシャ人であるキプロスの住民の中にもイスラム教に改宗しムスリムになる人が出てきます、とはいえこの頃はまだ民族間の対立は起きていませんでした。その後キプロス島オスマン帝国からイギリスに持ち主が代わりますがやはり民族対立は起こりませんでした。

民族間の対立が表面化するのはイギリスから独立するかどうかという時です、多数派であったギリシャ系のキプロス住民はキプロス全土のギリシャへの帰属を希望しました。しかし少数派とはいえそれなりの数居住していたトルコ系住民はその提案に反対しむしろトルコへの帰属を主張し対立してしまいます、結局この対立はトルコとギリシャ、イギリスが協議した結果キプロスをどの国にも帰属しない独立国とすることで決着をつけ1960年に独立しました。

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(キプロスの旗)

こうして成立したキプロスですが1974年に軍事クーデターが発生しギリシャ併合強硬派が権力を取ります、すると不安感を覚えたトルコ系住民はトルコに軍の派遣を依頼しトルコはキプロスの北半分を占領します。そして南部のトルコ系住民は北部に逃げ北部のギリシャ系住民は南部に逃げたことで分断は固定化し翌年北部のトルコ系住民はトルコ支援の下北キプロス・トルコ共和国を建国します、当然承認国はトルコ1カ国のみのトルコの傀儡国です。

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(北キプロスの旗、トルコそっくりである)

その後きた北キプロスは度々南側に南北連邦制での統合を主張してますが人口比で勝る南側はこれを拒否し分断前の状態にすることを主張しているので未だに分断されたままです、とはいえ統合に向けた協議は進んでいますし何より南キプロスEUに加盟したことで北もその恩恵を受けたいという考えや、宗主国のトルコもEUから加盟への条件としてキプロス問題の解決を求められているのでまた統合できる可能性は大いにありえるでしょう。

ちなみに一番上の地図だと緑色に塗られた英軍基地がやたら大きな面積を保有していてさながら第三勢力のようになってますが、イギリスは南北両政府の度重なる撤退要請を拒否して駐留し続けています。そしてこれまたややこしいことに北部の軍事基地だけは現在イギリスの影響下にありません、なぜなら北キプロス軍がイギリス軍を追い出し不法占拠したからです。つまりキプロスにはキプロス北キプロスとイギリス軍基地と北キプロスが不法占拠しているイギリス軍基地があるわけです。

2チェコとスロバキア

さてキプロス北キプロスは元々一つの国だったとこで住民間の対立が発生し、それに外部勢力が介入して起こった分断ですが、次に紹介するのは外部勢力の思惑で無理やり一つにされた後争うことなく分かれたという例です。それが東欧に位置するチェコスロバキアです、分裂前のこの国はチェコスロバキアと呼ばれ体操大国として日本では有名な国でした。

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(チェコスロバキアの旗、分離後のチェコも同じ旗を使ってる)

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(スロバキアの旗)

この国は第一次世界大戦オーストリアハンガリー二重帝国の崩壊と共に成立した東欧の国々の一つです、一応これらの国々は表向きは民族自決の理念に則って独立を認められた地域ですが民族分布と国境がかなり一致してない上にチェコスロバキアユーゴスラビアのように異なる民族をくっつけた国があったりと本当に民族自決の理念に則ったのか怪しい国家群となってます。

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(当時の国境と民族分布)

これはある意味当然でというのもこれら東欧の国々はソ連に対する防波堤とドイツの再興阻止のために少しでも強力な国にすべく作られたからです、一番分かりやすいのがポーランドで海への出口を得るためとドイツを分断するためポーランド回廊と呼ばれる不自然な地域を得ています。

チェコスロバキアもこの例に漏れず多少でも強国となるためにチェコスロバキアが合体した地域です、チェコ人とスロバキア人はたしかに言語や民族のルーツで近い民族ですがチェコが伝統的に工業地帯であったのに対しスロバキアは農業地帯であったのでそこら辺から来る違いがありました、例えばチェコは無神教者が多いですがスロバキアカトリックを信仰する人が多いなどです。東欧の中小国建国を支援した列強としては工業国と農業国を一緒にすることで工業も農業も強い国を作りたかったみたいですが、工業と農業では経済的な収益が全く違うためチェコ地域とスロバキア地域では経済的に大きな格差が存在していました、それらが分裂の原因になったと言えます。

チェコスロバキア第二次世界大戦ソ連の影響下に置かれ、その間は両地域の民族対立は表面化していませんでしたがこの頃から首都であるプラハが置かれたチェコ地域に権限が集中していることに対する不満が燻っていました。そして社会主義政権が冷戦の崩壊と共に集結すると両者はいよいよ対立し始めます、経済が資本主義経済に戻ると工業地帯のチェコは栄える一方農業地帯のスロバキアの伸びはイマイチになりますチェコスロバキア政府はスロバキア地域の経済をなんとかしようと様々な政策を行いますが。次第にチェコスロバキアのことを経済発展の妨げになると思いスロバキアチェコの事を口うるさく思いようになり余計な口出しが経済発展の妨げになると思うようになったので1993年ついに両国は別々の国として歩みます。

分裂後の両国は面白いことに同じ国であった時よりもずっと良好な関係を築いていて今や世界でも類を見ないほど中の良い隣国同士になっています、同じ国として歩もうとするとどうしても言語や文化の差で相容れなくても違う国なら割り切ることができてそんなの気にせずに済むからでしょう。ちなみに両国とも経済発展を期待して分離しましたがチェコ側には正直全く効果はありませんでした、ですがスロバキアは近年自動車産業を中心に工業化が進み、チェコスロバキアの経済的な差は以前ほどなくなっています。このためチェコスロバキアは同じEU加盟国として、同じ歴史を共に歩んだ仲として、同じ生活水準を共にする国として余計近い国となったのでそれも両国の関係が良くなった原因だと思います。

分裂に一切の争いがなく分裂後のほうが関係がいいなんてなんとも面白い話ですね。

3ルーマニアモルドバ

さて本当は他にも紹介したい国々はあるのですが長さの都合上これを最後のしようと思います、というわけで次に紹介するのはやはり東欧に位置する国ルーマニアモルドバです。

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(ルーマニアモルドバの位置関係)

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(ルーマニアの国旗、某宗教団体の旗と微妙に似ているが無関係である)

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(モルドバの国旗、ルーマニアとそっくりである)

ルーマニアモルドバは共にルーマニア人が多数派の国であり実際同じ国であった時期もあります、ルーマニアは歴史的に3つの地域トランシルヴァニアモルダヴィア、ワラキアに分けられます。

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(現在の国境の範囲なので地図では別だがモルドバもまたモルダヴィア地域に含まれる)

この3つの地域はどれも17世紀までオスマン帝国に支配されていました、ですがトランシルヴァニアは18世紀にハプスブルク家領にモルダヴィアの内東半分、ベッサラビアと呼ばれる現在のモルドバとその南の現在はウクライナ領の黒海沿岸部の地域は1812年にロシアに帝国に割譲され、ルーマニア人が居住する地域は3つの国に分けられました。

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(ベッサラビアの位置)

その後1878年露土戦争講和条約であるベルリン条約でオスマン帝国領だったワラキアとモルダヴィアの半分を合わせた地域がルーマニア王国として独立を果たします。

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(独立当時のルーマニア)

その後第一次世界大戦が集結しハプスブルク家の統治していたオーストリアハンガリー二重帝国とロシア帝国が崩壊するとポーランドチェコスロバキアと同じく民族自決という名の下東欧にある程度強い国を作るためルーマニアトランシルヴァニアモルダヴィアの領有を認められその領土は一気に拡大します。

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(第一次世界大戦後から1939年までのルーマニア領)

しかし1939年に第二次世界大戦が始まるとソ連独ソ不可侵条約ナチスと決めた勢力圏に基づきベッサラビアの割譲をルーマニアに迫る最後通牒を通告します、ソ連との戦争に勝ち目を感じなかったルーマニアは要求をのみ領土を譲ります。その後第二次世界大戦ではルーマニアは枢軸国入りを強要された上同じ枢軸国のハンガリートランシルヴァニアを奪われるなど苦難が続きます、その後ソ連の侵攻を受けてルーマニア社会主義政権になりハンガリーから奪われた領土は取り戻せましたがベッサラビアは取り戻せずソ連は当地にモルドバ社会主義共和国を作りソ連の構成国にします。

こうしてソ連の一部となったモルドバですがソ連統治下ではかなりの困難な時代を経験しました、例えば宗教は徹底的な迫害を受けましたし半ば意図的な飢饉を引き起こして餓死者を出したり反ソ的と断定された多くの人々の財産を没収した上で国外追放するなどしました。またルーマニア人としてのアイディンティティを否定され「同じ言語を話していて同じ文化を共有していても同じ民族とは必ずしも言えない」という謎の理論に基づきルーマニア人とモルドバ人は別な民族だとされ、その上でルーマニア語の表記をラテン文字からキリル文字にするなどモルドバをスラブ化させることでルーマニアとの文化的な断絶を作ろうとしました。これにらに加えて労働力として多くのロシア人やウクライナ人を送り込み現地の民族構成を変えるなどソ連当局のモルドバソ連化計画は多方面でなされます。

一方でモルドバ人はこうした動きにおとなしく従っていたわけでなく水面下で反ソ組織が多数作られその活動は反ソ出版物の制定からデモなどの抗議活動、ソ連からの独立を目指す政党の政治活動といった平和的な活動だけでなく警察や軍人、政府要人を狙ったテロ活動や武装蜂起など幅広い活動がなされました。そして1991年ソ連の崩壊と共に同国は独立を果たします、そして独立すると早速ルーマニアとの再統合を検討する様になりますがロシア語話者が多いトランスリストニア地域がルーマニアとの統合に反対し沿ドニエストル共和国として独立を宣言し内戦の末事実上独立するなど独立早々一悶着がありました。

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(沿ドニエストル共和国の位置)

しかし1994年にルーマニアとの統合を問う住民投票が行われると圧倒的多数で否決されてしまいます、この要因としてはもちろん沿ドニエストル共和国問題やソ連時代のルーマニアとの分断政策で断絶が起きたというのもあるでしょうがやはり大きな原因はソ連時代の抵抗を通じてモルドバ人に自国に対する愛着が湧いたからでしょう。

先にも書いた通りモルドバソ連編入されてから実に50年近く過酷な統治に晒され多くの死者や追放者を出し文化も徹底的に破壊されました、しかしモルドバ人はそれに対し国際的な支援など一切ない中めげずに抵抗をし続けついに独立を果たしました。その過程の中でモルドバの人々にとって自分達の国に対する愛着が湧いたのは間違いないでしょうし、ルーマニアは確かに近い国ではありますがルーマニアと統合することでせっかく得た独立を放棄するのが忍びなかったのも理解できます。結局ルーマニアモルドバは統合されることなく極めて近い隣国として友好関係を築きながら存在しています、もちろんお互い統合しようと主張する人は一定数いますが面白いことにモルドバの方がその割合はずっと小さいです。モルドバはヨーロッパ第2位の貧困国であり、ルーマニアEU加盟国であるのでルーマニアと統合すれば経済状況はあっという間に良くなるはずです、しかし経済よりも大切なものがモルドバにはあるのでしょう。

さてここまで様々な分かれた国家を見てきましたがいかがでしたでしょうか?このように国が2つに分かれるのは悲劇がある時も有ればお互い納得しより良い関係を築くためだったりと実に様々です。こうした国々は他にも色々あるので今後も紹介していこうと思います、それでは今回はここまでまた次回。