しば塾の世界史日記

世界史についていろいろ書いていこうと思います。

アメリカの偽善で元奴隷のために作られた国家

以前奴隷貿易に関連することを話したましたが、その記事の最後に欧米列強によって植民地化されたアフリカ大陸の地図を出したのを覚えているでしょうか?その地図をよく見て見ると2つ植民地化されていない国があるのが分かるでしょう、一つは紀元前にその起源を辿れるエチオピアもう一つはリベリアと言う国です。

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エチオピアはコーヒーやマラソンなどで日本における知名度は高いですが、リベリアを知っている日本人は少ないでしょう。リベリアは元々アメリカの解放奴隷が作った国で国名もラテン語で自由を意味すLiberから来ています、また国旗の由来は言うまでもなく自由の国であり、建国を支援したアメリカから来てます。そう聞くとこの国があたかも奴隷から解放された黒人による自由の楽園と思うでしょう。しかし実際にはこの国は建国の理由自体人種差別的なものであり建国後も様々な問題を抱え長きに渡って内戦が絶えず、現在では世界最貧国の一つとなっています、というわけで今回はそんなリベリアの歴史を解説していきます。

アメリカにおける自由黒人問題

アメリカではご存知の通り長きに渡って奴隷制が合法であり、多くの黒人が奴隷として過酷な仕事に従事していた。とはいえ独立してすぐの19世紀初頭の時点でこの奴隷制に反対する人はすでに一定数おり、特に奴隷を労働力に使わない工業が主体の北部では奴隷制を廃止する動きがありました。これは奴隷制によって支えられた綿花農業が主体の南部との間に対立をもたらし後に南北戦争のきっかけにもなりますが、ここでは割愛させていただきます、そんなわけでアメリカ北部では奴隷から解放された自由黒人と呼ばれる人々がかなりの数いました。

しかし、この自由黒人に対する風当たりは北部でも南部でも強いものでした、北部の資本家たちは彼らを安い労働力として期待する一方犯罪を引き起こし治安の悪化につながると疎み、白人工場労働者は自分たちの仕事を奪うと同時に賃金を下げる存在と憎んみました。南部では言うまでもなく根強い差別があったことに加え奴隷の反乱を引き起こすのではないかと恐れられ、この他にも黒人は人種的に劣っているので自由にするにはまだ早いと言った考えや白人社会に黒人が適応するわけがないといった意見もあり、アメリカ社会において自由黒人の肩身は狭いものでした。しかし当時のアメリカがこの解決のために取った行動は現在の我々からは想像もつかないことでした。

黒人による植民地建設運動

当時の自由黒人に対してアメリカがとった解決策は黒人をアフリカに帰そうと言うものでした、この当時アメリカ植民地協会と呼ばれる団体ができ黒人問題の解決策としてアフリカへの移民を提唱し多くの人々の支持を得たのです。黒人の地位を上昇させるのではなく黒人をアメリカから追い出すことで自体の解決を図るこの政策は当然当時の自由黒人から猛反発を受けたましたが、時のアメリカ大統領であるジャクソン大統領の大きな支持を得たこともありこの計画は着々と進んでいきました。移住先はいくつかの検討を経たあと現在のリベリアに決まり1825年には最初の移民団が送り込まれ着々と植民地を発展させ、1847年にはリベリア共和国として独立したのでした。

新生国家の抱えた問題

しかし、リベリアは建国当初から問題を抱えることになりました。まず出てきた問題はアメリカからの移住者(アメリコ・リベライアン)と現地に住んでいた黒人との対立です。そもそもアメリカから移住してきた黒人は先祖がアフリカを出て何世代も経っていた上に黒人奴隷の出身は多くが現在のコンゴギニア湾あたりでした。

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例えるなら何世代もアメリカにいたベトナムアメリカ人やフィリピン系アメリカ人がいきなり日本に国を作るようなもので彼らの文化や価値観は原住民のそれと全く合いませんでした。またアメリカ帰りの黒人は自分たちは文明化されていると言う意識を持っており原住民である黒人のことを野蛮人として差別しました、こうした態度に原住の黒人もアメリコ・リベリアンを「黒い白人」と軽蔑し両者の溝は埋まらないほど深くなってしまうこととなります。その上人口の5%前後しかいないアメリコ・リベライアンは政治や経済の実権を握っていたので原住民の不満はたまる一方でした。

元被害者が加害者になる

こうしていきなり前途多難な様相であったが、独立した当初はなんとか安定した国家運営をしていました。しかし1870年代になっていくと主力産業であったサトウキビやコーヒーのプランテーションがブラジルとの価格競争に敗れ衰退し、経済的に不安定になっていった。この困難な状況に対してリベリアが取った解決策は驚くことに事実上の奴隷貿易をすることでした。リベリアアメリカのゴム企業と契約を結び原住民に事実上奴隷の様な労働をさせることで事態を打開しようとしたのです、しかしこのことは当時世界的に批判されてしまい、国際連盟に告発されるほどであった。しかしリベリアはそれにも関わらず次は原住民のスペインの植民地であった赤道ギニアに奴隷同然の出稼ぎ労働者として輸出をしました、当然このことは大きな問題になり時の副大統領が辞任する騒ぎにまで発展しました。つまりリベリアは奴隷の子孫たちがつくったにも関わらず奴隷貿易をしていたのです、元被害者が加害者になるとはなんとも皮肉なことです。ちなみに経済は結局アメリカが支援したことで持ち堪えましたが、そのせいでリベリアは経済をアメリカの支援に依存してしまうことになります。

原住民の反乱と内戦

とはいえリベリアも時代を経るにつれて国内のこうした状況を改善しようとする動きが出てきます、1940年代からアメリコ・リベリアンと原住民との格差を是正しようと様々な政策が採られました。しかしいずれの政策も根深い両者の格差を解決することができず両者の軋轢は募るばかりでした。そんな中1979年、政府はリベリア国民の主食である米の値段を上げることを発表しました。この目的は政府の懐に入る金を増やすためであったがこれを機に原住民の不満が爆発、原住民の部隊がクーデターを起こし政権を奪取しサミュエル・ドウ軍曹が政権を奪取、アメリカリベライアンによる100年以上の支配に終止符が打たれることとなりました。しかしこの新たな政権も原住民の部族間の対立や新たに大統領となったドウが独裁を進めたことから早くも危機的な状況になりドウが選挙で大掛かりな不正(都合の悪い投票箱を海に捨てるなど)をしたことから1986年からすぐに内戦になってしまい混乱は中々収まりませんでした。その後1990年にドウの元上官で反乱部隊の指導者であったプリンス・ジョンソンがドウを拷問の末殺害しますが、彼はこの時のビデオが原因で失脚しエーモス・ソーヤという人物が大統領につきますがこれに不満を持つ部族の武装勢力との間で内戦が続き1996年にようやく終結しました。

しかし1999年ごろからまた大統領をめぐる対立から内戦が起き2003年まで続きました、そして数十年に及ぶ断続的な内戦の結果リベリアは今や世界最貧国の一つですリベリアの一人あたりのGDPはなんと500ドル前後です、経済がここまでひどくなった理由として内戦だけでなくドウ政権の時にアメリカからの支援金が彼の懐に行ってしまったことや冷戦終結のため1992年からアメリカが支援を打ち切ったことが大きいです。

以下は私の感想ですが、そもそもこの混乱は黒人を奴隷として連行しその後奴隷制度を非人道的としておきながら黒人を差別しそれに伴う問題を解決しようとせず、黒人だからアフリカでいいだろうという地理を全く知らないバカな行動、あたかも外来種の動物をペットとして買っておきながら近所の公園に捨てる無責任な飼い主のような行動をとったアメリカが完全に悪いでしょう。そしてまた現実における外来種問題と似たような結果を引き起こしてしまったこともなんとも皮肉なことでしょう。今リベリアは内戦による惨禍から復興しつつありますが今度は非アフリカ系の国民(レバノン等中東系の人々)に選挙権を与えないでいることが国際世論を巻き込んだ新たな火種となっています、リベリアがその名のような自由の国になるまでの道のりはまだ遠いでしょう。